本 阿古真里 『うちのご飯の60年―祖母・母・娘の食卓』




祖母、母親、作者自身と三代にわたる食文化を見つめる。


・昭和20年代、山村では食料はほぼ自給自足。米を作り、野菜を育てる。
 森で栗を採り、野いちごをおやつにする。フキやワラビを採る。
 魚は行商、肉は鶏を食べるが回数は少ない。
 卵は養鶏が産業となるまでは数日に一回の割合で食卓に上る。

・家のあちこちに保存食を置いている。梅干、味噌、漬物、干し芋、干ししいたけ、
 干し柿。タマネギは風通しの良い場所に吊るしておく。
 カボチャやサツマイモなど南方の野菜は床下収納へ。
 餅は年3回、年末、2月の始め、ひな祭りの頃に搗く。

・(昭和20年代)カレーは家で作るけれど、油をたっぷり使うとんかつやコロッケは
 近所の肉屋で買ってくるのが一般的だった。

・田舎の食卓が、このころ箱膳からちゃぶ台に代わったのは、油を使う料理がふえて、
 食事のたびに洗剤を使って食器を洗わなければならなくなったからでもある。
 こうして、家族の栄養改善のために、主婦の仕事が1つふえた。

・主婦にとってのもっと大きな変化は、献立に頭を悩ませなければならなくなったことだ。
 油脂やたんぱく質を積極的に摂ろうと思えば、農村の主婦たちも、毎日煮ものや味噌汁を
 作り保存食の漬物を添えるくり返しだけではすまなくなる。毎度毎度、家族の栄養バランスと
 好みを考えて献立を決める新しい常識が、やがて家庭の食卓を変えていくことになる。

・昭和30年代、炊飯器や冷蔵庫が家庭に普及し始め、若い女性は仕事を持ち、花嫁修業と
 されていたお手伝いさんはパートや主婦の仕事となった。

・戦後、主婦を重労働から開放したのは、家事家電である。(中略)家事をしない男性は、
 家電の登場を主婦が怠け者になると言って批判した。それほど家事は時間と手間のかかる
 大変な労働だったし、主婦の腕が試される技術を必要とした。

・昭和40年代、氷冷蔵庫と交代するように普及していった電気冷蔵庫は画期的だった。
 昭和35(1960)年には、アメリカからラップが入ってきていた。使いかけの野菜、
 作り置きの料理も、ラップに包んでおけば冷蔵庫で保存できる。

・(新婚生活を始めた母の)秀子の料理の先生は、これら(『主婦の友』)の本や
 雑誌だった。子供の頃、お手伝いはしていても台所の中心で働くのは母、そして姉たち。
 高校進学で家を離れた秀子は、母親からきちんとした料理を仕込んでもらう機会は
 なかったし、同居していない姑から料理を教わる機会も少なかった。

 ご飯の炊き方や味噌汁や煮ものの作り方、野菜の切り方、すし飯の作り方といった、
 子供の頃に見て覚えた基礎的な手順以外は、本を頼りに身につけた。

・昭和30年代前半、料理上手は妻としての評価を上げるポイントだったが、30年代後半に
 なると料理上手なのは当たり前、できなければ妻失格とされるようになった。これは
 メディアが他チャンネルとの差別化を図るために、どんどん料理の難易度を上げていったから。

・高度経済成長期、企業は新卒を定期採用したり終身雇用を保証して社員を増やし定着率を上げる
 努力をしてもまだ足らず、家電の普及で時間を持て余す既婚女性を採用した。

・昭和30年代は、かつては憧れだった「奥様」になる女性が急増した時代である。
 高度経済成長によりサラリーマンが急増するとともに、その妻となる専業主婦が増えた。
 かつて多数派だった農家や商家の妻たちは、家業を手伝い朝から晩まで働き詰め。
 そんな母親の苦労を見て育った娘たちの多くは、専業主婦の「奥様」になれる相手、
 サラリーマンと結婚したいと望んで彼らを射止めたのである。

 とはいえ、彼女たちは、家で夫の仕事関係の相手を接待することが必要だった。この時代はまだ、
 サラリーマンが懐に応じて接待できる外食店がほとんどなかったからである。

・昭和30~40年代、インスタントラーメン、レトルトカレー、麻婆豆腐の素といった中華系の
 合わせ調味料、冷凍食品などが登場して普及していく。
 電子レンジが普及したこととリンクしている。

・低温流通が可能になると全国各地から野菜や魚が運ばれてくる。技術の発達で
 食生活は豊かになっていった。

・(昭和50年代)核家族が家族であることを確認する儀式として、食事どきの団欒は
 必要とされていた。

・昭和51(1976)年に国産第1号となるシステムキッチンが登場した。大収納と
 掃除がしやすいデザインが好評を得る。現在ではシステムキッチンはどこに何が
 収納されているか判りにくい、カウンターは結局物置になる、リビングの様子を
 チラ見しか出来ないなどの理由で敬遠されつつある。
 むしろかつての土間のような使い勝手の良いキッチンが見直されている。

・高度経済成長期、菓子メーカーはベビーブーマーを取り込むためにアニメ番組に
 CMを流した。広告業界にアメリカからマーケティングが持ち込まれたのもこの頃。

・万博が開かれた昭和45(1970)年は、外食産業元年と言われた。
 この万博は「料理博覧会」と言われたほど、外国の飲食店の出店が盛んだった。

・この頃、ロイヤルホスト、ケンタッキー、マクドナルド、フォルクス、
 ミスドなどが第1号店を出店する。

・日本の食を支えた産業の歴史を調べていくと、戦後日本が、アメリカ化されたと言われる
 理由がよく判る。子供をターゲットにした広告展開がアメリカ仕込みである。
 企業が日本を牽引するようになって、国民は従業員や消費者となり、アメリカとよく似た
 ライフスタイルが企業主導で出来上がっていく。

・昭和50年は、専業主婦率がピークになり少子化が始まった年である。オイルショックで
 定職を失い、夫の収入も減ったので子供をつくらなくなる。

・低成長時代、企業はすぐに辞めさせられるパートを求め、主婦が将来の戦力となることを
 見込んで柔軟な働き方を提供するという発想はなかった。これにより、夫は企業戦士、
 妻は家庭を守るものという役割分担が固定化された。

・女の子たちの飲食店進出が増えたのは、バブルと、女性の高学歴化、そして昭和61(1986)年に
 施行された男女雇用機会均等法を背景としている。

・身体も心も弱っている時こそ、おいしいものが欲しくなる。被災地の数ヶ月をリサーチした
 『震災下の「食」神戸からの提言』(奥田和子著、NHK出版)には、揚げ物や固いおにぎり、
 ハンバーグなど偏った食生活の中で、おいしいものを食べられなかった人ほど食欲を失って
 いったことが報告されている。
 
 部外者から見れば贅沢と映るかもしれないが、生活の基盤が崩れて明日が見えない状況だからこそ、
 本当においしいものが食べたい。

・弁当や惣菜、おにぎりやパンを買うライフスタイルが浸透した平成2(1990)年ごろ、
 「中食」という言葉が生まれた。その時点ですでに中食・外食を合わせた「食の外部化率」は、
 食費の4割を占めるまでになっていた。

・私たちの暮らしには、家事と仕事の両方が入り込んでくる。働きながら家事をしたのは
 祖母も同じだが、祖母の労働は食べることに直接つながっていた。私は仕事で稼いだお金を
 家賃の支払いや日々の食費に充てる。

 三代の女性は全く違う時代に全く違う現実を生きている。そして母と私は、自分の親を
 見習うことができなかった。

・昭和の後半、毎日の献立が主婦を悩ませ続けた。そんな時代に、買い物に行った先で、
 自分の手料理よりおいしいものが売られるようになったのだ。「めんどくさい」と
 考えているときに、店先からおいしそうなニオイが漂ってくれば、買うだろう。
 家族や友達と囲む食卓は、家の中にあるとは限らない。外食店でも公園の芝生の上でも
 よいのだ。女性は、台所に縛られるのをやめたのである。


膨大な資料から編んだ社会史の読み物として非常にエキサイティング。
日本人の食生活が戦後に凄まじいほどの変化をしていること、
女性の専業主婦指向や中食はごく最近の潮流かと思っていたが、
実際はずっと昔から存在したのだなあ。

料理家電や流通など、テクノロジーの進化が食生活に及ぼす影響が大きいのは
判っていたが、法律の制定、すなわち政策によってライフスタイルががらりと
変わるのを知って目からウロコが落ちまくり。
政治というのは遠い世界の話じゃないんだ。


手料理より、スーパーのお惣菜の方がテンション上がる。
食べさせ甲斐がないねえ。


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[ 2013/05/15 23:22 ] 本・マンガ | TB(0) | CM(0)

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