本 工藤 綏夫 『ニーチェ』




・ニーチェによれば、道徳思想は消滅し、神は死んだ。今後は我々一人ひとりが、
 新たな価値の主体として生きなければならない。

・衆をたのむ末人(まつじん)や畜群のひとりとしての生を否認し、孤高に耐えて強健な
 主体的人生を生きる高貴な生き方を選び取ることによって、人類歴史の目標である
 「超人」を生み出すための架け橋となることこそが、人間本来の生き方でなければならない。

・ニーチェは両親とも聖職者の名門家系の出身。ニーチェが3歳の時に父が死去。
 祖母や叔母と一緒に女系家族の中で育つ。
 父方からの遺伝か、頭痛と眼病に悩まされる。

・幼き頃から優秀だったニーチェは、招かれて名門校に進み、ボン大学に入学する。
 極度に真面目で堅物だったニーチェは周囲のノリに合わせることが出来ず、
 ついにはライプツィヒ大学へと転籍することになる。
 
 ケルンで娼館に連れて行かれた時も女性に触れることなく、ピアノに触って
 心を落ち着かせた。

・24歳の若さでバーゼル大学の古典文献学教授に任ぜられる。

・「ここで人間の道は二つに分かれる。あなたが、心の安息と幸福とをえたいとねがうのだったら、
  信ぜよ。しかし、真理の使徒たろうと欲するならば、探求せよ。その間には数多くの中間の
  立場があるが、しかし、肝要なのは、この二つの中のいずれかをめざすかということなのだ」
 (ボン大学に在学中、妹に宛てた手紙)

・ルー・フォン・サロメを挟んでニーチェとパウル・レーは三角関係となり、
 これが破綻した後に三人は訣別する。サロメへの想いが成就しなかったことで
 ニーチェはますます孤独に陥り、家族や友人との不和が一層深刻なものとなった。

・著作が世間に理解されず孤独を深めていったニーチェは、睡眠薬や麻薬で精神を破壊され、
 45歳で精神病院に入院した。

・このディオニュソス的世界観は、快楽を苦痛の回避として理解する功利主義を退けて、
 苦痛の克服こそが真の高貴な快であるとするニーチェの英雄主義や、善悪二元の対立・争闘を
 通して真実の価値が創造されていくことを重視する反道徳主義の立場に連なるものであり、
 生成の過程そのものに、無限の意義を認めようとする永劫回帰思想を生み出す母体とも
 なったものであった。

・ニーチェによれば、社会主義運動は、転載を凡俗に化するものとして退けられるだけではない。
 自由な個人の独創性を否認してこれを富国強兵のための単なる道具たらしめようとする
 危険な反動政策が、この運動の危険性を防止するという理由で合理化され、
 強化されていくこととなるが故に、非難されべきものなのである。

・ニーチェによれば、人類文化の目標は、水平化された幸福の実現にあるのではなく、
 あらゆる苦悩や圧迫を物ともせずに独創的な世界を切り開いていく、後期で強健な
 個性の持ち主である「天才」の産出にあるとされている。

・衝動の奴隷として自己を喪失することをやめ、自己を生の主体とし価値の定立者として
 とらえ直し、生の主体たるにふさわしいものに鍛え上げていくことこそが、ここでの
 主題だったのである。

・もはや人々は、彼岸の価値によって此岸(しがん)の生を意義づけようとする旧来の
 「夜の哲学」にとらわれることなく、此岸の生をこの此岸の生自身故に価値あるものとする、
 「正午の哲学」によって生きることを学ぶべきである。そして、この「正午の哲学」の立場で
 新たな生存肯定の原理たるべきもの、したがってまた、新たな価値定立の原理を
 可能ならしめるもの、としてニーチェが選びとったものが、「永劫回帰」の思想であった。

・「そしてそれら(永劫の道)はみな再来するのではないか、われわれの前方にあるもう一つの道、
  この長いそら恐ろしい道をいつかまた歩くのではないか―われわれは永劫に再来する定めを負うて
  いるのではないか―」(『ツァラトゥストラ』第三部)
 
 このような思想は、ニーチェが高く評価していたギリシャの哲人ヘラクレイトスの万物流転説や、
 仏教の輪廻説に通ずるものであろう。

・ニヒルな現実に耐えてこれを肯定し、受動的な弱さのニヒリズムを能動的な強さのニヒリズムへと
 転換させる意志の決断を支えるもの、としてニーチェが選びとったものが、この永劫回帰の
 思想だったのである。
 (能動的ニヒリズムは良で受動的ニヒリズムは悪)

・ニーチェは、彼岸的な理念によって此岸の生を意義づけようとするキリスト教的な評価様式を否定し、
 これに代わる新しい生存肯定の思想原理として、永劫回帰の思想に想いいたった。

・「生成が一つの大きな輪環であるとすれば、いずれのものも等しい価値をもち、永遠で、必然的である―
  然りと否、愛好と嫌悪、愛と憎との相関関係すべてのうちには、生の特定類型の或る遠近法が、関心が、
  表現されているにすぎない。すなわち、それ自体では、存在するすべてのものは然りと言っているのである」
 (『権力への意志』293)

・逆から言えばこの永劫回帰説は、各自のこの現在の生を大切にし、充実して、それがそのままの形で
 永遠に反復することを願わずにはいられないようなものに作り上げていこうとする決断を、私どもに
 要請してやまないのである。ニーチェは、こうした決断の生を生きることを、「運命愛」と名付けた。

・「『すべての神々は死んだ。いまやわれわれは超人が栄えんことを欲する』―これが、その大いなる正午に
  おけるわれらの究極の意志であれ―」(『ツァラトゥストラ』第一部)

 さて、この「超人」とは、ニーチェによれば、運命愛の精神によって、生成するすべての現実を
 永遠へと深化し、永劫回帰の理念によって、生が遭遇するすべての対立を総合し、総計して、
 生を全体的に是認するところの、平均的人間とは異類な、より強く、より高い生存類型を意味する
 概念である。

・超人は「すべてのことが許される」。自らを超人と錯覚したヒトラーのような個人や民族が
 どれほどの非人道的な行為を平然と演じ得るかを我々は学んだはず。

・このような誤解を防ぐためには、ニーチェの掲げた人間類型「超人」は、どこまでも遠い未来に
 実現さるべき典型であって、現実の人間そのものを聖化するという意味のものではなかったことを、
 忘れてはなるまい。すなわち、「超人」はニーチェにとって、あらゆる現実の人間を越えでている
 典型理念であり、すべての人間がこの典型を実現するために現実の自己を超克していくべきであるという
 課題を、神に代わって人間に提示するものであったのである。

・ニーチェにとって現実の人間はすべて(中略)高い使命を果たすために自己超克につとめてやまない
 人間こそが、意義ある人生をもつことができるのであり、そのためには、安易な自己肯定によって
 卑小な自我を温存しようとする弱さを羞恥の念によって反省し、乗り越えて行かなければならないと
 いうのが、ニーチェの真意であったことを見失ってはならないのである。

・ここで「権力」といわれているのは、政治権力や武力などという物理的強制力を意味するものではなくて、
 無限の可能性をたたえ、いっさいの凝固停滞を突破して向上しようとする、根源的な内的生命力そのものの
 ことである。(中略)それゆえに、道徳のための道徳をモットーにして、道徳のために人生があるかの
 ように考える「道徳至上主義」を引き起こしたものとして、きびしく斥けられる。(『権力への意志』354)

・あらゆる人間が同権であるとする人道主義や、民主主義や社会主義などの近代的理念は、人間向上の
 ための苛烈な努力を忌み嫌ってすべての高貴なるものを引きずりおろそうとする、低劣な畜群(衆愚)本能に
 基いて立てられた錯覚に過ぎないものである。現代人の間に普遍化しているデカダンの風潮は、いっさいの
 高貴なるものを水平化するこうした畜群本能の支配によるものである、とニーチェは力説する。

・真の救済者は、これらの内攻した意識から人間を解放してくれる無の超克者、「超人」であって、
 これらの意識が幻想する「神人」などではないのである。ここからニーチェは、弱者の奴隷道徳を
 聖化するキリスト教的な禁欲道徳を攻撃し、これらの道徳を案出する「良心」なるものが、実は弱者の
 胸奥にくすぶる残忍な怨恨感情(Ressentiment)であるに過ぎない、という見解を、大胆に主張していく。

・ここにあるものは、卑劣な利己主義によって高貴なるものを引きずりおろそうとするルサンチマンであり、
 水平化運動をおしすすめることによって畜群的な群居動物を支配者の地位に祭り上げようとする、
 嫌悪すべき賤民主義であるに過ぎない。そして、このような潜在的ニヒリズムを準備したものとして
 ニーチェは、キリスト教僧侶道徳を非難するのである。

・ニーチェにとって「神は無い」のではなくてまさに「神は死んだ」のであったのだし、神を
 殺戮した者としての責任を自らに負って、神に代わる最高立法者としての超人を産出するために
 自らを犠牲として没落させることがこそが、高貴な人間のしるしであるとさせたのであった。

・こうしたかれのキリスト教批判の根底に流れていたものは、キリスト教的な愛の福音の否認などでは
 なくて、教会僧侶たちによって偽装されたルサンチマン宗教としての堕落した教会宗教への潔癖な
 反感の念であった、というべきであろう。

・ニーチェの中には、ルカーチがその『理性の破壊』で指摘したように、ユンカー的な貴族主義に
 つらなるような反動的偏見がないとはいえない。そこにニーチェの危険性があることも事実である。
 しかしそこにはまた、卑俗なブルジョア主義や権力的な国家主義に対する痛烈な批判があり、
 浅薄な衆愚主義や群衆主義に対する適切な警告がある。


神は死んだ現在、我々一人ひとりが新たな価値の主体として生きなければならない。
衆をたのむ末人(まつじん)や畜群のひとりとしての生を否認し、孤高に耐え強健な
主体的人生を生きる高貴な生き方を選び取ることによって、人類歴史の目標である
「超人」を生み出すための架け橋となることこそが、人間本来の生き方でなければならない。

こんなに充実した人生なら何度繰り返してもいい、と言えるような生き方をするのが
永劫回帰ということか。

超人の産出のためなら犠牲もやむなしとして民主主義や人道主義といった
近代的理念を否定しているが、落ちこぼれた人間を救済するのが
ニーチェが攻撃したキリスト教的福音なのだろうか。


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[ 2013/07/04 22:41 ] 本・マンガ | TB(0) | CM(0)

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