本 『知識ゼロからのニーチェ入門』




・どこかに、それ自体として独立した「真理」が存在し、それは理性と認識によって
 必ず到達されるものであること。これはのちにキリスト教的世界像の暗黙の信念とも
 なるが、じつはこの観念のうちに、ヨーロッパ的思想の根本性格が潜んでいる、と。
 (プラトンの『饗宴』に登場する「美的ソクラテス主義」を批判した)

・ルソーのロマン主義は「かく生きたい」という希求だが、ゲーテの現実主義は
 「かく生きるほかない」という断念である。理想と現実の間で引き裂かれた時、
 人はどうすべきか。ショーペンハウアーは単に観想するだけでなく、人間や世界の
 抱える赤裸々な矛盾を認識しながら、生の本来の意味を確認せよと言う。

・キリスト教の没落は、ヨーロッパ人にとって、「何のために生きるか」という目標の
 大きな崩壊と喪失を意味した。それはヨーロッパ人がはじめて「自由」を獲得したことの
 巨大な代償だった。

・現代科学は「真理」を求める。その心性の奥に、ニーチェはやはりまたしても
 ルサンチマンを見出し批判する。それは、今の苦しい世界ではない「真理」の世界が
 あるはずだという、ルサンチマンが作り出した幻想なのだ、と。

・この「奴隷道徳」に取って代わるものとして、ニーチェは貴族主義的な「主人道徳」を説く。
 強く高貴なものは、「平等に扱われたい」「権利を認めてもらいたい」などとは思わない。
 彼らは、自らの価値を自ら肯定することができるからだ。そこにルサンチマンはみじんもない。
 それは強者の道徳である。

・ルサンチマンの根っ子にあるのは「こんなのは絶対に受け入れられない。でもそれを変える
 力は自分にはない」という無力感である。
 これは他に攻撃対象を求め、自己正当化の物語を創りだす。自分がどのような態度で
 生きればよいか、という実存的課題を克服し、恨む気持ちを噛み切って捨ててしまえ、というのが
 ニーチェの主張だ。

・「力の思想」は一見相対主義に似ている。しかし、そうではないのは、「力の思想」の
 出どころが、「身体」や「欲望」にあるからだ。世界それ自体というものはなく、
 一切は「肉体」の「欲求」や「衝動」による解釈である。ここでの「解釈」とは、
 すなわち「意味」や「価値」がある、ない、という判断のことだ。

・注意すべきは、相対主義や懐疑主義は、まだ「世界自体」を暗黙の前提としているということだ。
 それはただ、絶対的に客観的な認識などありえない、と主張する。「力の思想」は、
 まったく違った発想をとる。“正しい見方”があるかないか? そんなことははじめから
 問題ではない。一切は「価値」があるかないか、である。

・「形而上学」とは、この世界を超えたどこかに、何か超越的な意味や聖性が
 存在するはずだという確信のことだ。

・誰も生の意味と目標なしに生きることは出来ないからだ。あるいは、生が苦しみである
 大多数の個体にとって最も耐えがたいことは、苦しみの意味と理由が見出だせないことだ。
 その不安と恐怖の心理学が、生の意味と目標を与えてくれる「神」と「聖なるもの」に
 ついての「形而上学」を“捏造”してきた。

・マルクス主義とポストモダン思想は、資本主義社会のオルタナティヴを探し続けたが、
 結局、その不可能性にぶつかって挫折した。このことで、人間の未来について、
 誰も明確な展望が見えなくなり、このことで、現代のニヒリズムが浮上してきたのだ。

・永劫回帰の思想は、自分の過去のつらい出来事を呪ったり、しぶしぶ受け入れたり
 するんじゃなくて、苦しいことやつらいことを含めて「この人生を欲する」と
 君は言えるのか?と我々に突きつけてくる。


知識ゼロでも大丈夫と謳っているが、エッセンスのみなので
多少なりとも哲学の流れが判っていないとちんぷんかんぷんなのではないか。
これは、大学の講義ノートを読み返してみたらキーワードの羅列ばかりで
全体像が掴めないあの感じに近い。
むしろ復習用にさっと読むのに便利だと思う。


こんな苦しみに満ちた世界は間違っている、今とは別の真の世界があるはずだと
考えることは、ルサンチマンによる幻想でしかない。


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[ 2013/07/28 23:21 ] 本・マンガ | TB(0) | CM(0)

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