本 斎藤環 『関係する女 所有する男』




セックス:生物的な性差 ジェンダー:社会・文化的な性差

・検査により、子宮や卵巣があるべき腹腔内に精巣が見つかった
 アンドロゲン不応症候群の患者は、男性染色体を持つにもかかわらず
 どう見ても「完璧な女性」に見えた。
 
 染色体のありようとジェンダーのありように決定的な隔たりがあることを
 見せつけられた経験から、ジェンダーにまつわる一切の本質的な議論を
 信用できなくなった。

・ジェンダーの議論に身体性の全面肯定派が参加したら、何が起こるか?
 彼らは必ず言うだろう。性差は生物学的な区別によって決定づけられて
 いるのだから、ジェンダーなんて幻想に過ぎない、と。

 しかし僕に言わせれば、彼らの信じている身体性のほうが、典型的な
 幻想に過ぎない。終章でふれるように、身体がいかに想像や幻想の影響を
 受けやすいかということを暴いたのが精神分析だ。
 
 僕がこの立場にこだわる理由のひとつはここにある。精神分析の立場を
 とらなければ、僕たちは「性的身体」の呪縛をしりぞけることができなくなる。
 そのくらい身体というのは、僕たちにとって「リアルな幻想」の領域なのだから。

・右脳・左脳論は、この種の擬似科学本ではしばしば参照される
 非科学的俗説の典型である。本の中でこの説がもっともらしく
 紹介されていたら、その瞬間にその本をトンデモ本認定してしまって
 差し支えないほどだ。

・ジェンダーを脳の解剖学的、もしくは生物学的な差異に還元しようとする
 議論は、しばしば男女それぞれの「自然な役割」の素晴らしさを強調しようとする。

 たとえば、原始において男女は、きわめて自然な役割分担のもとで生きており、
 それは前近代までめんめんと受け継がれてきたことだ、云々。
 しかし、近代化にともなうアノミー化(共通の規範がなくなる状態になること)によって、
 こうした古き良き価値観は破壊され、人々は依拠すべき規範を喪失して
 途方に暮れている、というわけだ。

 これが典型的な(そして素朴な)差別主義者の論法であることは論をまたない。
 彼らのロジックを用いるのなら、部落差別も黒人差別も簡単に正当化できてしまう。
 どんな醜悪な差別にも、それが成立し維持され続けてきた程度には、
 なにがしかの「意味」や「根拠」があるのだから。

・男子の場合は、自己評価を決めるのは一般的に「社会的スペック」である。
 すなわち知的・身体的な能力やコミュニケーションスキルといった、
 能力的な側面である。外見的な側面よりは本質的・機能的な側面に
 こだわりが強いとも言える。

 この時の葛藤が対人恐怖という形をとりやすいのは、その葛藤の本質が
 「相手から能力を低く見積もられるのではないか」という点にあるからだ。
 「恥」や「世間体」などの意識も、男子の場合、つきつめればこの葛藤に
 結びついてしまう。

 しかし女子の自己評価は、容貌のみならず髪型から衣服まで含めた外観的・身体的
 要因によって大きく影響される。女子の身体にかんする葛藤は、男子よりも
 ずっと全面的で多様なものなのだ。

・そう、思春期の時点ですでに、男子は所有の思想に取り込まれている。
 地位や名誉や金、それらをもっとも多く所有した高性能のオスだけが、お気に入りの
 メスをも所有する権利を手に入れる。こうした所有の思想は、思春期において
 徹底的に刷り込まれるのだ。

・榎本ナリコ氏によれば、腐女子は「位相萌え」ということになる。「位相」とは
 すなわち、関係性の位相を差している。ある少年ものの漫画作品において、男同士の
 友情や確執といった関係が描かれるとしよう。彼女たちが暑く注目するのは、まさに
 この関係性なのである。そこに描かれた微妙なしぐさ、視線、せりふ等々の断片から、
 こうした関係性をいかに恋愛、すなわちホモセクシュアルな関係性の位相に
 変換するか。これこそが「やおい」における普遍的なテーマにほかならない。

・第四章でふれた言い回しを繰り返すなら、「男は立場の生き物、女は関係性の生き物」と
 いうことになる。そう、男性は一般に、自分の「立ち位置」が崩されることを
 ひどく恐れるのだ。

・いっぽう女性にとって、「立場を失う」という恐れは、さほど切実なものではない。
 女性が何かを欲望するさいには、自ら主体のポジションなどどうでもよくなって
 しまうからだ。ひたすら対象に没頭し、自らを空虚にしてのめり込む。
 「立ち位置」などといった観念的な要素がないほうが、はるかにその快楽は増すだろう。
 だから彼女たちは定義づけられることをひどく嫌う。

・もし男女間に「完全な平等」が実現したら、それはセクシュアリティの、いや
 それどころか、欲望の消滅を意味するだろう。だから僕たちは-それが可能であるとして-
 選択肢なければならないのだ。「支配も従属も欲望のある世界」か、
 「支配も従属も欲望もない世界」のいずれかを。
 
 しかし答えはすでに明らかだ。後者が選択されることは決してない。

・対比的に言えば、主人公の座を「所有」しなければおさまらない男性に対して、
 女性はその座を自由に「関係」することができる。それゆえ描写がしっかりして
 いるなら、能動、受動は問われないのだ。

・哲学とは、言葉だけで閉じた世界を構築しようという試みだ。これはきわめて
 男性的な言葉の使い方である。なぜなら男が使う言葉は、それによって
 世界を構築する=所有するための道具にほかならないからだ。

 これは女の言葉の対局にある。なぜなら、女は言葉を世界と関係するためだけに
 使用するからだ。男の言葉はしばしば独り言に近いけれど、女の言葉は
 常に相手を必要とする。男は言葉からできるだけ情緒的なものを取り除こうと
 するが、女は言葉を情緒の伝達のために使う。この違いはきわめて大きい。

・女だけの特徴とはなにか。それは「身体をもっていること」だ。

・僕を含む一部の男性が、真夏にジョギングをしたりして好んで大汗をかく快感を、
 女性はどうも理解できないらしい。これに限らず、多くの男性は、自分の肉体を
 スポーツとか鍛錬という名目でいじめたり痛めつけたりするのが好きだ。これは、
 そうでもしないと自分が身体を持っていることを忘れてしまうためではないかと
 僕は疑っている。

・女性性の本質とは:女性の身体は「擬体」であること。擬体につつまれた女性の
 「本体」は、性別を越えた非定型の存在であること。

・一般に女性は、空虚さを、憂鬱さを、倦怠を、孤独を、男性よりもずっと
 強く感じている。この環状は女性における「関係原理」の根本にある。
 彼女たちの空虚は、関係における分裂に由来するために、それを「所有」で
 埋めることはできない。空虚を埋め、あるいはごまかしてくれるのは、
 他人との親密な関係性のみなのだ。

・すべてとは言わないまでも、さまざまな能力のジェンダー間の違いについて
 「慣れ」と「学習」の問題と考えるなら、脳など持ち出す必要はない。つまり
 発達の過程で「所有」の身振りに慣れ親しんだ男性と、「関係」の身振りに
 慣れ親しんだ女性の違い、ということで十分に理解が可能だ。

・所有原理の男の会話は、極論すれば「情報の交換」にすぎない。しかし関係原理の
 女の会話は、情報よりも情緒の伝達や共有が大切になる。だから会話は、
 互いの関係性をより親密にしたり、すでに親密であることを再確認するために
 なされる。

・男の目から見て、女同士の会話がしばしば無内容にみえるのはこのためだ。
 しかし女性からみれば、男性の会話はしばしば殺伐とした味気ないものに
 みえることだろう。

・一般的には、生物としての男は所有原理で活動し、同様に女は関係原理で動く、
 という傾向があるだけの話だ。繰り返すが、そこにはなにか決定的な違いが
 あるというわけではない。

 ならばもうジェンダーを、男と女という素朴な枠組みで考えることもないだろう。
 世界にはただ、「所有者」と「関係者」だけがいる。そういう味方はどうだろうか。
 どちらの原理が欠けてしまっても、この世界は失調をきたしてしまうだろう。

・「所有者」と「関係者」は、もう少し互いに理解し合い、あるいは寛容になれる
 のかもしれない。
 ( 男性には「関係原理」の、女性には「所有原理」の理解を促すことで相互理解を
  深めましょう、そうすれば恋愛とか結婚とか、なにかとスムーズになりますよ、
  というわけだ。)


身体は脳に簡単に騙される、という立場から、バックラッシュ派の
内田樹を非難しているのがちょっと面白かった。
武道により危機察知能力、野生の勘を取り戻すのは重要だと
思っているのだけど、ちょっと違うのかな。


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[ 2013/11/06 23:03 ] 本・マンガ | TB(0) | CM(0)

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