本 岡田正勝 『ウィトゲンシュタイン』




・「神を信じることは生の意味に関する問いを理解することである。
  神を信じることは世界の事実によって問題が片付くのではないことを
  見てとることである。神を信じることは生が意味を持つことを
  見てとることである。」ただウィトゲンシュタインはトルストイのように
 神への信仰を持っていたのかどうかについては確かではない。

・ウィトゲンシュタインにとって哲学の課題は何よりも語り得ることを
 明瞭に語り、それを記述することである。「哲学の目的は思考の論理的浄化である。
 哲学は教説ではなく、活動である。哲学の仕事は本質的に解明からなる。
 …哲学はそのままでは濁っていて輪郭のはっきりしない諸思考を明晰にし、
 はっきりと限界づけるのでなければならない」
 
(中略)哲学がその課題を果たした時、哲学的諸問題は解消する。しかし
 このことによって語り得ないものが存在することが示される。きわめて
 逆説的な言い方でウィトゲンシュタインは『論考』の課題は究極的に
 語り得ないものの存在を指摘し、それに沈黙を促すことにあると主張するのである。

・最初にあげた命題「世界は成り立っている事柄の全てである」というのは
 現実の世界についての規定である。しかし「世界」は現実の事態ばかりではなく、
 可能的事態をも含んでいる。言い換えれば、ウィトゲンシュタインは「世界」を
 たんに現実に記述される世界としてではなく、論理的空間において把握しているのである。

 「論理において何ものも偶然ではない。ものが自体に現れ得るなら、事態の
 可能性はものにおいてすでに予め決定されていなければならない」
 「論理的空間における諸事実が世界である」と述べて、彼は「世界」を
 論理的空間における論理的形式、つまり言語によって表現されるものとして
 捉えている。

・ウィトゲンシュタインが記述しようとする「世界」は自然科学の世界である。
 彼はこの自然科学の世界に論理を透徹させる。この世界に論理が透徹している
 限り、この世界には論理に矛盾するものは何一つ存在しない。この世界における
 全ての事態は明晰に語られ、解明されうるものであり、謎は存在しないのである。

・ウィトゲンシュタインは「世界は私の世界である」とし、私の言語の限界が
 私の世界の限界を意味するとした。他方で「私は私の世界である」とも述べている。
 この主張は「私」という主体が世界に属さず、主体が世界の中になく、世界を
 超越していることを意味している。したがって、この主体が把握する限りで、
 世界が把握されているのだから、世界はソリプシズム(独我論)の立場から
 捉えられているのである。

・私たちは価値ある人生を求め、価値の何かについて言葉の限りを尽くして、
 それを語ろうと努めている。しかしウィトゲンシュタインはそうした
 私たちの努力に対して希望なき企てだと考えた。
 
・価値、人生にとって最も大切なモノは、事実の世界を語るのと同じようには
 決して語り得ないということを自覚しながらもなお価値を求めようとすると、
 それはもう沈黙する以外にない。真に語らなければならないものを持つ時、
 私たちは沈黙を余儀なくされるということが「語り得ることについては、
 沈黙しなければならない」に示されている。

・彼はこわい先生だった。気が短く、すぐに怒り出し、誰かが彼の言っていることに
 賛成しかねる態度をとると直ちに反論を求め、反論できずにいると、
 「これじゃあストーブと議論しているみたいだ」と激しい口調で非難した。

・ウィトゲンシュタインは『考察』において、「なぜ哲学は非常に複雑に
 入り組んでいるのであろうか。哲学はまったく単純でなければならないはずである」
 「哲学が複雑に入り組んでいるのは、その素材にあるのではなく、私たちの知性が
 もつれてしまっているからである」と述べている。こうした知性のもつれを
 解きほぐすことがウィトゲンシュタインの後期哲学の課題であった。
 
 『考察』において、こうした知性のもつれを解く企てだとして「展望の効いた叙述」の
 必要性を説いている。彼の仕事はすでに述べたように日常言語の分析にあったが、
 彼にとって哲学は日常言語の展望に欠いている。したがって哲学は「文法の管理人」として
 日常言語に展望を与えなければならない、という課題を追求することになった。


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[ 2013/12/21 23:43 ] 本・マンガ | TB(0) | CM(0)

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